うだうだ

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常軌を逸した人はその行動や働きが倫理と照らし合わせ、悪いほうに行けば悪党となり、
善き行動と見なされたら奇才として一定の評価を獲られる。

常軌ってなんなのさ。
僕は齢こそ重ねているが、知識や経験は浅はかだ。
だから、常識だとか教養といった事柄に非常に疎い。

多くの人は、他の人たちと同じような基準を保ちたがる。
集団から孤立するのを避けるためなのかな?

でもそのわりに、他の皆とする人たちより優位であったり得意な要素を持とうと考えたりする。

僕はこれを矛盾だと感じて、どうしても納得いかない。

人には育つ環境や受ける教育、関わる人間によって、個々の価値観や性質を持つハズなのだが、そうした自分の内にある価値判断の基準を、自分以外の査定に委ねたがる。

つまり他と比較して優劣をつけたり、自慢したり、無い物ねだりと卑下したりだ。


僕は自分をバカだという。
これにはちゃんと根拠があるから言うが、バカであろうがなかろうが、実はどうでもよい。

なぜならバカと言われても、腹がたたない。

賢いというのが対義語なのかはわからないけれど、賢いと人から評価をうけても、然程(さほど)喜べない、多くの場合根拠がなく、それを言う者の思い込みに近い主観から導かれた言葉であって、本当の賞賛とは異なる。

なにかの優劣を競うときは根拠が必要である。

根拠に基づいた優劣の評価を得たとしても、やっぱり僕はそれに対しての反応は薄い。

人は誰でも何かの面で優秀であれば、某かの面が愚劣だろうと考えているからだ。
完璧な人間というのは何を以(もっ)てしても完全に出来上がっているということなのだろうが、そんなやついない。

あるいはそんな完璧な人間は常識では指し図れないだろう。
でもこの僕の意見は、一つの想像であって、事実であるわけではない。
ようするに敢然とした根拠などないからだ。

日本語を公用語としてる人間とロシア語を公用語としてる人間とでは、あらゆる面で違いがあるだろうと考える。
これの根拠は人間は記憶の引き出しをあけるとき、主にそれは言語を用いてなされる。
しかし、日本語と英語では言葉がことなるため、または日本語が漢字を用いて単語に意味を宛(あて)がうため、あるいは英語が音に意を持たせて
音楽的であるのとは異なり、日本語は文字に意を持たせる。
また発生し発展した過程に差違があるだけ、言葉一つが持つ語意に差違が生じる。

そうした意味で言語一つが異なるだけで、人の表現力や伝達力には同じ基準では図れない違いがある。

日本人には日本人の文化的な価値基準があり、英国人には英国人の文化的な価値基準がある。

どちらも優劣をつける事柄ではない。

こうした意味合いからも、僕は人それぞれの価値に基準を設けることは難儀なうえに、何の意味もないことだと考えている。

自分が何かの分野において、友人やライバルと優劣を競い、互いが自身を向上させようと研鑽することには意義があるが、優劣に意味はない。

僕は一般教養や常識には疎いが
、多くの人にとって無用とされる知識や経験を僕自身は有益という様を持っている。

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