生きるということ

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十年ぶりにメールで先輩とやり取りをした。
そのとき先輩が言ってくれた。

『お前の書く文章には何かわからんけど独特の雰囲気がある、お前はこれから作家になれ』


これからどうしようかと自分の将来を漠然と思うことが多かった。
これまで自分が取り組んできたことを考える。
仕事や趣味や生き甲斐、しかし今自分がやりたいと望む事柄は
白紙である。
俺は自分の過去を、すでに一つの物語として綴り冊子を作った。
それは誰のためでもなく...ただ自分なりにこれ迄の人生の歩みを、記憶と共に風化させるのではなく、確かな記憶として書き留めたかっただけだ。

願いがあった。
救いがたい過去を切り捨て明日を夢見て今を素敵に生きる。
言葉にすればなんということもない簡単なことだ、と思う。

俺には無限に拡がりを見せる空白の未来が見えるのだ。
自分が何かをすれば、空白の拡がりに何色かの筋が走り、それは影のように自分の足元から明日へと繋がるだろう。
明日より無限の果てにまで色が伸びてゆく、それが妄想や想像ではなく、手に取れるかのように目に写る。
空白の今を生きる俺の手や足から無地の筋が、遠い未来まで伸びているのが見える。

今俺が立っているのは境界線だ。
暗黒の過去は真後ろに見える、様々な彩りの糸が絡み合い俺を縛り付けるように体に絡み付いて見える。
だが境界線を一歩踏み出せば、過去の糸が其処を境に断ち切れる。
境界線から見える未来の拡がりは、分岐点のように『ヤワ』な道などではなく、未だ誰も足を踏み入れていない、強く無限の未来だ。


『作家になれ』
その言葉はなぜだか心に訴えかける力を感じた。
だが
暗黒の過去に光をあてて、死にゆく亡骸の物語を書くのか?そんなものではない。そんなものではいけない。
俺の心の奥からそんな叫びが聞こえる。
未来を描き書くのだ。今を生きる現実に繋がりを持つ未来を言葉にして書くのだ。

それは物語などでもなければ勿論予言書などという、いかがわしいオカルトめいた物でもない。

しかし未来を想像の世界で描き、物語を書くのでも無ければどうやって未来を言葉にするのか。
俺にはそれがわからない。

誰しもが明日に目覚め生きるという希望の灯火のような
自分の気持ちを前向きに啓蒙するような話か?
どこの誰がそんな偽善的な話を欲するのか。
そう偽善でしかない。明日に目覚めない人も今を生きている現実を書かなくては。

今を書き綴るのだ、それが借金の返済に負われる男が借金の回収を依頼された暴力的な集団に、今まさに撲殺されんとする残酷な今や、
求めてやまない異性が自分の思う通りのままに己を求めて念願の欲情が充たされんとする今を。
難産の末ようやくこの世の光に包まれて産声をあげた今に、代わり映えしない退屈な時を仲間内で流行している動画を酒を飲みながら見ている人の今...、その全ての今を一つの文章にして書き綴らなければならない。

今を如何にあるのかが境界線を越えた未来を築きあげてゆく。
継続は力だというが、力を成す必要に迫られ日々コツコツと何かを果す。
しかし未来を築くものが風化してゆくような自分のちっぽけな過去に操られては、生きているとは言えない。
継続した過去など忘れてしまえ、掲げる未来の像を形にする瞬間に期待などしてはつまらん。
そうした理想像というものは必ず迷妄の虚像を生む。
況(いわ)んや、称号や勲章、地位や権力を持つ姿などチンケなものを理想像とするのは、たわけ者と嘲笑われても仕方がない。
肩書きや肩書きに付随する諸々の可能性など、思い上がりが作り出す浅はかなものだ。
そうではない。
今まさに素敵である自分を生きていれば自ずと地位も肩書きも称賛の声も備わるのだ。

全身全霊で境界線を歩むのだ。
真っ暗に見える明日の地平は迷妄によって色づけされた紛(まが)い物。
未来を地獄に変えるのは過去などではない、今だ。
未来を楽園とするのでは未来を煉獄にしてしまう。
今を生きるこの瞬間を極楽浄土とするのだ。
宗教めいた言葉ではあるが、祈りによって天国に逝くのではない。
天国だと理解し得ないは宗教の罪業だ。
彼岸と此岸と分かつものに於いて全身全霊でなければ、死ぬまでこの世の春に夢を見る。

では未来の自分自身の姿を描き、そうした幻像を目標と掲げて日々それに至るまで努めて邁進する?
日々を真剣に一心に生きることは願いを持つものにとって義務だとされるかも知れない。
しかしそれでは未来を見てはいやしないか、未来に思いを馳せるエネルギーまでもを今此処の所為に費やすのは無駄なのか。
成りたい幻像があるのではなく、幻像になりしも生きている限りその先へもっと先へと自身を向上させる。
求めたイメージの為すところを『未来』に託してはいつまでもその『未来』とやらは訪れず不毛だ。
具体的なイメージを求めるのなら今を為さなければいけない。
生きる意思を継続するのだ。休息は生きてさえいればいずれ全てのものに訪れるものだ。
生命の灯火は誕生した時より体は変われども受け継がれてゆく、人が終わりを体験することはできない。
つまり終わりというものは小賢しい奴が考え出した概念でしかない。実在しないものは存在しないものは『無』だ。

人生には、無駄などと掃き捨てるような事柄は存在しえない。ギャンブルに金と時を、薬物に金と人間性を費やして何も残らない、
ギャンブルなんざ存在しなければ破産せずに済んだのに。麻薬なんか存在しなければ狂うことも無かったのに。
こうした場合多くは当の本人よりも身近な人間からそんな風に揶揄される...多くは負け犬を見るような目で。
だがそれは違う話だ、当の本人がそうした考えが沸き起こるというのなら、それこそ宗教のように
『悔い改めよ...』と言わざるを得ない。
ギャンブルや麻薬に狂った自身の行いを悔い改めるのではない。決して違う。人はよくこうしたことを誤解して理解している。 
博打や薬物や女遊びといった享楽をすることを悔い改めるのではなく、愚かなことをしたと反省などするのなら、
『愚かなことだと自分で理解することに我を忘れて今を果すこと』を二度と繰り返さないと誓うのだ。

『あと一回』を、タネが無くなるまで何度も繰り返す、それ事態が愚かなことだと自分で思えない、
或いは思わないのならそこに後悔が割り込む余地などない。
後悔がない、おおよそ失敗だと思われることであってもそれを自身の意思を以て果すのは過ちではないのだ。
だからといって揚げ足取りのように、
『自分で善いことに励んでると信じるなら、何をしても赦されるのだ』
というのは浅はかで身勝手な解釈でしかない。

国が定めた法律を絶対視する意味もないが、世間の規律や決まり事なるものは、人間が互いにいさかいなど起こさずに共存共栄してゆくのに
適当だと認められた約束事である。
宗教が生活の規範となっている人もいるだろう、それは多くの場合『信教の自由』で許された所為であるが、
それは同じ価値観を育む者たちだけで共有し責に励めば良い。
だがしかしその『信仰と信仰に伴う規律』は自分という個々の範疇で為すことであって、決して他人に強制してはならない。
信仰を絶対視するあまり、自身が崇め奉る神なり仏なりの信徒の内に於いても『他人の信仰を侵す働き』は、
元より神道仏教道教景教回教密教等一切いずれに於いても慎むべき行動であり、何より自分の信仰の典拠にたいする背教である。
そもそも信仰対象が異なるか否か、何を以て判ずるのか?
また信仰を持たないものを排斥するのも、或いは信仰を持たないものが信仰者を排斥することも、無用のいさかいである。
売られた喧嘩だと熱くなる気持ちはわかるが、人を殺めたり傷つけたり無視したり、
貴様の人生の煌めく今はそんな些末な行いや思考に費やすほどケチな様なのか?
信仰や思想、価値観が違えども、それが人の真価を問うものではない。

過去と未來の境界線である今を全身全霊の思念と働きが最上を果すのだ。それによって形作られる現実が今の貴様の実力なのだ。
納得できない、満足できない、許せない、認められない、と現状を受け入れられないのならば、納得できるようにし、満足するようにし、
許し、認めるように努めるしかない。
すべて自分の心の働きが作り出す現実だ。

相手が悪い、環境が悪い、状況が悪い、今更遅い、まだ早い、どうしようもない、諦めるしかない、許されない、受け入れられない、
逃げられない、否定することはいつでもできる。
物事の始まる前にも、物事の始まったときも、物事が起こっているときも、物事の終わったときも、物事が終わった後も、
これらのいつでも否定はできるのだ。
だからといって間違いや過ちや失敗を肯定すれば正しいなどというものではない。
起こってしまったことを消し去ることはできない、それでも最善を努めるしか人にはできないのだ。

最善とは解釈の問題や立場の問題や規範に拠るようなことで導き出されるものではない。
つまり最善とは思想や信条に決定づけられない。

最善は最善でしかない、全身全霊の賜物である。
自暴自棄や迷走に陥る、自分から某かを惰気したり放棄すれば、理想が崩れたり希望が潰えたりして迷走するのは道理である。
人は脆く弱いと知らねばならない。
自らが欲する最上を成し得ると自身の最善を忘れることがある。とくに最上とする事柄が金や人や物や評価などに根拠を持つとき、
目眩ましに浮かれる。
根拠は最善を尽くす自分に由来しなければならない。

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