幻覚に導かれた悟道

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悟る悟りは嘘の悟り...
それがどうした大坊主。

禅宗でよく言われる悟りの境地、生きることに迷った者に救いの手を差し伸べるわけでもなく、悟ったとされる坊主が偉そうに説法する。

小悟は数あれども大悟が大事だという悟り。
開祖釈迦の悟りと道元禅士の悟り、白隠禅士の悟り、山岡鉄舟居士の悟り。

いちいち小難しい比喩で説明したがる腐れ坊主よ。
お前らは浅ましい。
生きることに小難しい屁理屈なんか必要ない。
死ぬのが怖いのは生きる腹が出来ていない若年層は当たり前だ。
女も男も性の歓びも知らんうちに死ねるかバカたれ。

人は親より産まれて親になり死んで逝くのが物の道理である。
人の親になるのに性を知らんやつがあるか。
性に溺れるのがケダモノだというのか?獣は発情期にしか性行には及ばん。

性に溺れるのが罪なのは女惚けしたジジイが罪だ。
若い世代は肉体を持て余す、精神が富んでいない故に、身体の精力が強くそれ故に理性より本能が強いだけだ。

釈尊は中道を説いたというが、それを直接聞いたモノがあるか?
いるわけない。人は皆死ぬ。
だがしかし、命の焔は永遠に近く灯火を受け継ぎ輝く。
生きている最中には無限のような個人の命は長くない。それは相対的に判じる妄想が生み出す想像だ。

命を生きているモノの主観だけにおいて、その命が長いのか短いのか、そんなものはわからん。
わかるわけがない。人は命を一心に生きる、産まれた時の記憶がないように、いつからか始まりそれがある日絶える。
絶えてしまえば記憶がないのだ。その一生を思う隙などない。

自分より後に産まれて先に死ぬモノが居る。それを見ることは己の死を連想させて突然自分の命の終わりを妄想し恐怖する。
それが妄想だと言える証拠に、己の死を恐怖するものも夜が来れば眠気を催し、知らぬ間に眠る。
本当に死が意識できたならば、眠りに落ちないだろう、眠れば自意識が絶えることを知っているわけだから、自意識の絶える眠りにさえ恐怖するからだ。
つまり凡(およ)そ人の本能というものは、死を恐れない。
自分が自分だと信じて疑わない自我が無意味に死を恐れる。

それは社会に措いて、己を無いものとして扱われるときにも、似たように恐れを感じる。
自分の存在を認めてくれる存在が無いことを恐れる。
自意識というのは厚かましく、他人に認知されることで自身に価値を感じるのだ。

人より優位に立ちたいという欲求の根源は、自分というものの命を永久的に存続させたいが故の意識の現れだ。
それは即ち、子孫という自分の命の焔を絶やしたくないということだ。

だが考えるまでもなく、自分というものはたかだか数十年で息絶える。
そんなことを知ろうと知らずまいと、意識しようとしまいと全く関係なく命は始まるべくして、親より生まれ子に受け継がせようがしまいが終わる時は終わる。
自然に、命の仕組みに到達される。


自分が自分だと存在は自覚によって作られる。
自覚を持たないモノには自分などという夢など見ない。

自分という意識を持たなくても、生まれて生きて死ぬのだ。
それを恐れる根拠は妄想でしかない。

また人は人生を不公平だと命を与えたもうた神に訴える。
命を与えられ自覚を持てるまでに生かされながら不平を訴える。
それはただの浅ましい嫉妬でしかない、生きて死ぬことに誰も違いはないのに、他人の環境を羨む。

人から羨望の眼差しで見られることを幸福だと言うモノがいる。
金持ちだ美人だ優秀だと。
それは意味もなく自分がマヌケに見える己の部位や能力を、自分より長けたモノと比較して意識する。

まったく残念だ。
自分の裕福さに気づけないその認識力の弱さが残念だ。

病や怪我で自分の想像する未来とそうではない自分との比較であれば自ら作り替えられる可能性を、誰それよりも醜い貧しいなどと言う。
己がワザワザ己の卑屈な点を意識する、自らを蔑む意識があるのなら己よりも醜い貧しいと嘆くものがいることにも気づける筈が、ないものねだりなバカバカしいわがままを語る。

醜いとする外見や貧しいとする経済力を保持できるというのは生きてるからだ、死んでしまえば醜いも貧乏もない。比較などできない。
生きていることに不平不満を言うのは誤りである。

人間は手に余る金を持つことでは満たされないことが分からないのか?
他者より抜きん出る美貌があれども命の焔を受け継ぎ次代へ受け渡す時を経て歳追えてしまえば、何の価値もない。
種馬のように次から次に自分の遺伝子を撒き散らすのは、生命の仕組みに命じられ、他の生命より未来へ自分を生かしたいという欲の現れを、羨む意味があるのか?
次から次に多種多様な男性の種を孕む事を幸せだと思える者を羨むなら、機をみて股を開けばオスはアホだから集まるよ。


悟りとはなんぞいや?と問われたらば、人というもの世界というもの、即ち生命を知ることだ。
悟れば死を恐れなくなるのではない。死の業を自覚して生きながらにして死んだ命だという現実を受け入れて、命を大事にすることだ。

悟り坊主も死にたいわけではない。死ぬべくして死ぬことを納得しているかどうかだ。
死ぬなら死ぬと知って、無闇と死に臆病にならず、生きるために全身全霊であることを貫くのだ。
それはヤケクソとは違う。
命はいつか潰えるが、失するのは宿命と受け入れられる腹の据わりを修行によって持つことだ。

無邪気な信仰心は悪くない、だが人間は理性的であればそうであるほど、神の所在を知る。
それでもそれを神だと讃える心の根拠が信仰心である。
神さまが何をしてくれるか?わからんというアホがいる。
生かしてくれる魂の所在はどこにあるか、この世に魂が物質としてあるのではない。

命はつまり留まらないことだ。
行き止まると死ぬ、腐る。
肉体は細胞の活動によって生かされる。
それは意識によって育まれるのではない、細胞一つ一つが生まれ育まれ死んでゆく。
そうした細胞の活動による電気信号が『生きる』という唯一の意味だけに存在する。

それは自分でありながら自我ではない自身を無限の過去から終わり無き未来まで継続すること。
その果てしない命の躍動にほんの一瞬垣間見せる感覚の歓びが生きている実感である。
知らぬ間に始まり知らぬ間に終える。
陰と陽の呼吸を精神を成す。
呼吸という活動が命そのものである。


これでわからんものに悟りなどあるものか。
小難しい理屈を捏ねたり、アノクタラサンミャクサンボダイなどと名づければ良いのではない。

何故に誰しもに、生けとし生けるもの全てが仏であるのか。
魂という鼓動が一切であるからだ。


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