首輪をつけたのら?

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俺は長らくの自堕落的生活と人間関係の鎖国によって、
それまでたくさんいた友人や知人、恩人たちとの縁が潰えた。

人間関係の鎖国は俺が周囲の人間を気遣って勝手にしたことだ。
だから鎖国を止めた今では毎日の生活は静かなモンだ。
約十年の鎖国生活は随分内省的で、それまでの自分を再確認
しながらもそれを破壊してゆくようなもので、初めは完全な
自己愛に満ちたそれまでの生涯を、今度は徹底的に
自己否定していく。

一種の思考ゲームだ。

その否定をし続けたときに最後にどうしても否定出来なかった
ものが今の俺のなかに生きている。
それはまた否定出来なかった故に俺のなかで
改めて強い存在になった。

小さな家族

仲間

自然

...。

おかげで執着しまくってるわけで、

徹底した自己否定の思考ゲームは、仏教の『般若心経』に
感化されて無自覚に始めたのだろう...。
だろう、というのは最初は否定をする気持ちは無くて、
自分を『完全品』に近い人間だと思っていた。

だけどその時の俺は人生のどん詰まりにいた。
この世の最果てに行き着いた、と感じていたし、
あらゆる物が失われていた。

『完全品』だと信じようとしたが、俺という人間がなりえる
完全品には誰の目にも明らかな欠陥があった。
そんなことは自分でも知っているけれど、その欠陥が未開の
可能性に思えた。

『ぎゃーてー、ぎゃーてー、はーらーぎゃーてー、
はらそうぎゃーてー、ぼーじー、そわか』
という希望と、自分のなかの明らかな欠陥。

読んでる人には意味わからんよね(笑)。
だけど、自分のなかで否定し尽くし最期に明らかな欠陥を
自分で許すことができたのなら、揺らぎない自信を得られる。

所詮は無駄な行為だとわかっていたけれど、
現実のどん詰まりにいた自分のワガママにとって、
確実に信じられた真実を欠陥以外なにものでもないと、
否定したくなかった。


般若心経は徹底的に現実を否定していく思考が書かれている。
否否否否否否...、とあらゆる認識を『空』という概念によって
否定する。
この宇宙はすべて実在しない幻だと解く。

しかし否定しつくした果てに現れる
『希望(語弊があるかもしれません)』がある。

それがお経の最期に現れる大変ありがたく、素晴らしく、
最上の呪文(真言)

『ぎゃーてー、ぎゃーてー、はーらーぎゃーてー、
はらそうぎゃーてー、ぼーじー、そわか』
だと説く。

般若心経に説かれた哲学(真理)を正しく知り実践することで

「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」

なる悟りの境地(無上正等覚)に至ると、つまりは道しるべだと。


...、

それで俺は般若心経に書かれた否定を自分に施した。


なんのために?

長々と意味のわからんことを書いたけど、


シャブボケした自分を癒やす存在にすがりついてただけやけどな(笑)。

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